昭和49年06月30日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修業じゃ。いかに有難そうに心行やお祓えをあげても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節を付けたりせんでも、人にものを言う通りに拝め。」

 先日私共の二人目の孫が、丁度誕生のおかげを頂いて一カ月になりましたから、親教会に御礼参拝をさせて頂きました。家内と嫁と孫と三人でお参りをしました。そして帰りに、吉富写真館という、教会の結婚式の時に見える写真屋さんですが、あちらで記念写真を撮ろうと思って寄りましたそうですけど、三十分掛かった。眠っておりますから、起こそうと思って写真屋さんご夫婦がもう顔をパチパチこう叩いて起こそうとしなさるけれども、どうしても目を開けない。
 それで眠っておられる写真は写されん。と言うてとうとう写してやんなさらなかった。私はそれを聞かせて頂いて、写真屋さんとしての良心とでも申しましょうかね。金さえ取ればこちらが写して下さいと言っておるんだから、金さえ取れば写すというのではなくて、これはもう一ぺんどうでも出直して来て下さい。と言うて言われたと言う事です。それを聞いてから本当に感心致しました。
 今日は年に一回の、大体は大祓式というのは、上半期下半期十二月と六月なんですけれども、ここでは今日の大祓式というのは一回なんです。そして「はらえつもの」をご信者の皆さんにお配りして、そして「はらえつもの」をお祓いをさして貰い、又は特別御祈念として、交通安全祈願を一緒にさせて貰う訳です。それはここ独特のものだと思うですけれども、まあ最近大変交通事故が多いです。毎月交通安全祈願というのを、久留米地区の教会でもなさっとられると言う事で御座います。
 けどもここでは年に一回、車のお祓いをする訳で御座います。ですから毎日それを御祈念しておるというても、又は年に一回お祓いをさして頂くに致しましてもです。これはいうならば宗教人としてというか、宗教家としての責任を感ずる。もう間違いなしに「はらえつもの」を出させてもろうた。車の交通安全のあれを出してしかもお参りして、しかも車まで持って行って祓うてもろうたのにこんな事故があった。と言う様な例えば事を聞きますとね、矢張り自分の良心的に苦しみます。
 ですからとにかく、たくさん集まりさえすけば良いというて、いきなりに御札を配ったり、「はらえつもの」を配ったりをせよとは、私は申しません。自分の力の圏内と言う物を、自分でうすうす感じますから。けれども皆さんが真心でです。たとえば信心は無かっても、隣近所の誰それさんにお話をしてお祓いを受けられる。そのおかげで去年が一年間無事故でしたと。
 または、本当に大難を小難、無難でおかげを頂きましたと言うて喜んでおられる所に、皆さんが例えば持って行ったり、それでもやっぱりことずけるからには、お金の千円も包まにゃならん、だから、もう今年はもうよ御座いますと言うて断られた所もあるという。かというと、わざわざ向こうから持って見えて、あちらのお祓いのお祭りはまだですかと言うて催促される様な方達もある。
 それはもう本当に、その色々ですけれども、去年が車だけでも千台からのお祓いをさせて頂いとります。その中にです。例えば事故に会ったのは皆無と言う事ではないけれども、それはそれでも、例えばちょっと追突されて自動車がそでたとか、けが人がというのは無かった。まあこれが例えば事実であるとするなら、これはもう世紀の奇跡だとさえ私は思います。七台車を持っとれば、一台は必ず事故に会う様な率は、そういう率になっておると言う事である。
 そこでです。頼んでさえおけば良いかと言う事でなくて、やはり今日のこの御理解の様に、どんなにお祓いを上げてもという、どんなにお祓いをしてもろうてもと言う事、そこに神に通づる何物かがなからなきゃいけない。願う者も、頼む者も。昨日、ある方が言っておりましたけれども、宮地嶽さんでは、一台お祓いをしてもらうとに六千円かかるそうですね。ですから、それは一つのやっぱり現があります。
 六千円もの金を、いうならば一台に払うて、お祓いしてもらうとだからおかげを頂くだろうと思う、思い込みと言う様な物がです。矢張り量的にいうてそういう難を除ける様な、いわゆる病気は気からというが、交通安全もやはり気からと言う様な事も言えるのです。ですから、段々おかげを頂いて、合楽の教会でお祓いをして頂いたんだから大丈夫。今年は無事故でおかげを頂くだろうと、その思いもさる事ながらです。
 矢張り信心を頂いての事ですから、それに真がこもらなければいけない。願う者も又はそれを取次ぐ者も一つの良心的な、いうならば責任を持ってそのお祓いの行事が出来る位なものがなからなければならない。というて私は私に一つの力を自分で感じる。例えば千台なら千台までならば私が持てれる力があるけれども、それが二千台になったら自分でもちっと危ないと言った様な感じがするから、私は勧めなさいよどうしなさいよとは言わん。例えば北野の中村さんなんかはもう十五、六年ですかね。
 久留米の報国タクシーにもう十五年間、まだ一回も事故を起こした事がない、無事故です。あそこに参りますとお神様のある部屋にずうっと額が上がっとるです。大体いうたら、あちらに運転手として雇われた時からではないけれど、そういう一年一年無事故であった者に対する表彰ですか、と言った様な物が出来のが7、8年になるそれ以来の額がずーっと上に上っとります。清さんといいますがどんなに考えたっちゃ、いくらあんたが名人とか上手だから、または用心深いからっちかというと用心深くないです。
 とにかく荒いです。とにかく福岡からここまで、とにかく何十分で走ると言った様な離れ業もやってのけるです、話を聞くとそれでもです十五年間も無事故で、しかも車に乗り回すのが仕事でしょうが、そりゃある場合なんかは、久大線の線路の上で大きな事故がある寸前でおかげを受けたやら色々、それから何というですか、車の中に後ろからピストルを持って、こう突き上げてから、佐賀県の山中をぐるぐる回ったと言う事もあったんです。その十五年間の中には。
 それでもそれが十五年間無事故で不思議なおかげを頂いておると言う事ですか。そういう例えばおかげを頂いとりますからです。先日も日田の綾部さんがお届けしとられます様に、こちらにお参りする様に成ってこの方。五年間一回も無事故であったおかげ、沢山自動車を持っとられますから、ですから丁度一週間位前だったでしょうか、無事故の表彰を、五年間無事故であったという表彰を受けましたとこう言う。例えば事故に会ってもです。事故に会った事が又おかげを頂いたと言う様な場合もあります。
 却って善導寺の原さんなんかは十三日会の帰りに、常持で事故に会われました。もう自動車はガチャガチャですけども、四人ですか乗っとりましたけど、誰も怪我もせずにおかげを頂いて、けれどもおかげで車が新車になった。それも不思議な不思議なおかげを頂いてから新車になった。あげなふうなら、時々事故に会わにゃいかんのと言う事ある感じです。そういう所謂おかげの中にです。それがあっておる。
 もうそれは本当に身の毛のよだつ様なね、ダムに落ち込んで、小さい一本の木が車に引っ掛かっとってからおかげを頂いて、こそこそ這い上がってしもうてから、写真に写して持って来とるのがあります。下にもう水が見えとる。まあそれはそういう話を致しますと、数限りはない事で御座いますけどです。これは私の信心の言うならば良心を持ってです。私は大祓式とは形式だけのものではなくて、それを受けたからには。
 そこで私は、中村清さんにです。あんたそういうおかげを年々頂いとるとじゃから、あんた信心さして頂きよって、その報国タクシーの数はどれ位あるか知りませんけれども、社長さんに話して、合楽の金光様のお祓いちゃこげん功徳のあるもんだから、お宅もしなさったらどうですかと言うたら、もうそれこそ年々歳々沢山な事故の金だけでも充ててある位ですからね、自動車会社ですから。
 ならちょっとうちのとを合楽にお願いしてくれんかと、自動車は全部持って行くけんお願いしてくれないかと、例えば言うに違いはないです。私をよう見て下さい。私が十五年間もお宅の車に乗せて頂いとるけれども、いっちょも事故が無い。是を見ただけでも分かるでしょうがと言えば。例えばそのどげな人でも、ならどうでも合楽の大祓式の時は家の車をみんな持って行ってお祓いをして貰おと言うに違いはないです。
 けども私は言いません。なぜっ自分の力自分の良心の、それこそ金はもろうた、貰うから写真屋さんじゃないけども、写してあげればそれは金は儲かるのだけれどもです。けれども写真屋さんの良心がです。とても眠っておられるのは写し切らんとこう言うとる。だから私がどこにも勧めなさいとは言わんでしょうが。それは皆さんが止むに止まれん思いで隣に言う。それは私の祈りの圏内で、そういう働きが出来て来るのです。例えば合楽のお祓いを受けときゃ病気もしないか、交通事故にも会わないかと。
 そんなこっちゃない、それはありもしようけれどもです。その力と言うものをです。本当に奇跡的なまでに、それを感ずるだけの働きと言う物が、あっておると言う事です。ただいうならば、宮地嶽さんのそれじゃないですけども、ただ気休め心が安まるというだけのお祓いではなくてです。それを信ずる事になる時にです。そこからいうならば、そういう私の念力と、皆さんの真心とが一つになって、大変ないうなら奇跡を呼ぶような働きが生れて来る。
 そこで皆さんがそれをです信じて例えば、お取次を頂くと云う所に今日の御理解があるそれにはです。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修業という修業がまずは出来なければならぬ。そして真心でとおっしゃるその真心とはという追求をしなければならん。真心にもならん、いうならば辛抱もしきらん、そう言う様な事で例えばおかげを受けたにしましても、それは私の祈りなら祈りだけでおかげを頂いておる。
 例えば皆さんが預かってみえられる、信心がなくても合楽の金光様にお願いして下さいと言うて手紙なんかも遠隔地から沢山来とります。それが一人一人の上にです。いうならば、一つ流行病にでも患はない様に、または交通事故などにも会わんで済む様に、大難は小難、小難は無難のおかげを頂く様にという祈りと、皆さんの信心とが一つになる時、またはささやかでは皆さんが信じられる心とが一つになって一つの奇跡を呼ぶ私は思います。無理に大きな音を拍手一つでもです。
 無理に大きな音をさせるには及ばんとか、小さい音でも神には聞こえるとか、拝むにも大声をしたり節を付けたりせんでも、人に物を言うとおりに拝めと言う事ですけども、これは、その内容が真心であって、それでなからなければならないと言う事。ただこうやって、あっち見たりこっち見てたりしてから拝んどる様な事では出来ないです。いわゆる一心が要るのであり、不乱が要るのである。一心不乱にやはり拝まして頂く為には、つい声も大きゅうなる、大祓の声も大きゅうなる。
 大きな声をあげてはならんというのじゃない、真さえあれば。私の朝の一時間の御祈念なんかは、それこそ拍手も打たなければ、言葉に出して物を言うわけでもない、祈念をする訳でもない、ただ心中祈念である。けれども私の心中祈念は神様が一々受け取って下さると自分で確信しておる。それは親先生は真心だからと言う訳でしょうけれども、その真心とてこれで良いと思うとらん、何時もその真心の追求をこれでも足らん、これでもいかんと思うて改めに改めて。
 その真心を追求しながらの物であるから心で思うただけでも神様に通ずるのである。そういう真心がなくて大きな声をしたんでは、大きな声だから神様が聞こえなさったと言う事はない。人に物を言う通りにと言われるけれどもです。それは真心があって、または一心不乱のものがあって、はじめて神様には通うのです。そういう意味で今日は年に一回の大祓式が、いわゆる特別御祈念が行なわれます。だから「はらえつもの」に家族中の者の年やら名前やらを書いて。
 あの雛形の紙に書いて出しておるから、あれで祓うてもらう。それも有難い。けれども、やはり真心というか真と。今日の御理解で言うならばです。やはりそこに威儀を正してのお祭りを頂かしてもろうて、本当に一人一人がお祓いを受けると云う所にです。私は今日のお祓いの意味があると思うんです。愈々それを有難いものにして行く。今日の御理解じゃないですけれども。
 そういうただお祓いをして頂いたから、もうおかげで病気もしなかった、おかげで事故にも会わなかったというおかげと同時に、今日の御理解は朝参りをするにえらいと思うてはならぬその辛抱こそという信心修業と、それからいうなら金光大神のお徳だけで助かるというのと、そのお徳を自分達の真心の信心を持って受け止めて行くという信心と、今日は二つを一つにした様な御理解だったと思いますね。
   どうぞ。